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きょうは朔太郎忌ですから

 きょう5月11日は萩原朔太郎の命日となっております。

 昭和17・1942年5月11日、世田谷区代田一丁目六三五番地の自宅で数え年五十七歳の朔太郎は肺炎のため死去しました。

 告別式は5月13日に自宅で営まれましたが、乱歩は「私は家族の人とは殆んど口も利いていなかつたし、萩原氏のほかの友達ともつき合つていなかつたので、告別式に列しても、顔見知りがなくて閉口したものである」と自伝で回顧しています。

 そんなこんなで、『探偵小説四十年』にも一部が引用されている、そしていかにも乱歩らしい誤写が散見される「探偵小説に就いて」をここに全文掲載しておきたいと思います。

 初出は「探偵趣味」の大正15・1926年6月号、底本は昭和51・1976年に筑摩書房から出た『萩原朔太郎全集 第八巻』です。

 コナン・ドイルに熱中した昔もある。今ではもう退屈だ。犯罪があり、手がかりがあり探偵が出る。ああいふ型の小説を探偵小説といふならば、もう探偵小説はたくさんだ。

 所謂探偵小説は、一のマンネリズムにすぎないだらう。どれを読んでも同じことだ。ちやんと型が決つてゐる。もう好い加減に廃つたらどうだ。読む方でも飽き飽きした。

 しかし探偵小説といふ言葉が、このごろではもつと広い意味の大衆文学を含むやうだ。もう探偵小説なんて言葉は止して、新しい別の言葉をつけたらどうだ。しかしだれかの云ふ猟奇小説も気が利かない。もつと自然的で妥当性のある名がほしい。

 ポオの探偵小説はすべて好きだ。「物言ふ心臓」「黒猫」等のものを、もし探偵小説といふならば、探偵小説は偉大な芸術だ。しかし普通に意味する探偵文学なるものは、たいていくだらないものが多い。コナン・ドイルはまだしもとして、近頃流行のアルセーヌ・ルパンに至つては何事だらう。あんなものは少年世界に載せる文学だ。好い年をしてあんな小説を読んでる人があるかと思ふと可笑しくなる。

 雑誌「新青年」で最近読んだものでは、ビーストンの短篇を一つ記憶してゐる。紐育の或る建物、数十層もある高いビルヂングの頂上を、窓の張出しに伝つて歩く男の心理を描いたものだが、実に読者をひやひやさせる。読んでる中に。幾度も足をすべらして落ちる様な不安を感じさせる。
 これに類するものにポオの「渦巻」がある。船に乗つて竜巻に巻き込まれ、漏斗形の渦巻の底へ次第に吸ひ込まれて行く時間の経過を書いたもので、恐怖の極致ともいふべき文学である。
 この種の文学は、変態心理の描出を主題とするもので、そこにまた大衆向の興味がある。ドストイエフスキイの「罪と罰」なども同様で、犯罪者の変態心理を描出して遺憾がない。探偵小説の新しい概念中には、変態心理の描写などが重要な主題を占むべきだらう。

 軽いユーモラスの文学も悪くない。「新青年」に出たものでは「地下鉄サム」が面白かつた。サムを主人公にしたあの短篇小説は、どれも皆面白かつたが、就中「サムの新弟子」などは、紐育の気分がよく浮き出てゐて、読後までも印象が深かつた。ああいふ気の利いた文学は日本に無い。ああいふのも大に探偵小説の概念中に取り入るべきだ。必しもサムがスリであつたり、探偵が出たりすることを要しない。犯罪とか、探偵とかいふ観念なしにも、本質的に探偵小説が成立し得ることを考へてもらひたい。そこからして我々の「新しき文学」が出発する。

 江戸川乱歩氏の「心理試験」を買つてよんだ。もちろん相当に面白かつた。しかし有名な「二銭銅貨」や「心理試験」は、私には余り感服できなかつた。日本人の文学としては、成程珍らしいものであるか知れない。しかし要するに「型にはまつた探偵小説」ぢやないか。西洋の風俗を、単に日本の風俗に換へたといふだけの相違であつて、既に僕等の飽き飽きしてゐるコナン・ドイル的の探偵小説にすぎないのだ。探偵小説といふものが、もしそのマンネリズムに安住して居り、その刻印された型の中で奇を競ひ、そして幼稚な読者を対手とする低級な通俗文学で満足してゐるならばもちろん僕らの言ふことはない。しかし私は所謂「大衆文学」を「低級文学」と同視しない。私は今日の所謂文壇芸術に反感している。あの玄人気取りの、日常茶談的な、低徊趣味の所謂文壇芸術を革命すべく、今や「新しき文学」の時代が迫りつつあることを予感してゐる。
 文壇芸術は亡びるだらう。そして之れに代はるものは新興の大衆芸術でなければならない。「芸術としての大衆文学」でなければならない。しかして我が探偵小説等が、正にその新時代の先頭に立つべきことを考へてゐる。それ故に私は江戸川氏の「心理試験」に不満する。通俗文学としてはそれで上々の出来だらう。マンネリズムの探偵小説としては、世評の如く正に最近の傑作だらう。しかし新興文壇の黎明を予言する第一流の文学と見るには、遺憾ながら芸術的価値が足りない。

 しかし「心理試験」の中で、最後の「赤い部屋」といふのを読んで、始めて明るい希望を感じた。此処にはもはやコナン・ドイルが出て居ない。所謂探偵小説のマンネリズムがない。そして、ポオや谷崎氏の塁を摩するものが現はれてゐる。それから私は江戸川乱歩が好きになつた。就中、最近「人間椅子」を読んで嬉しくなつた。「人間椅子」はよく書けてゐる。実際、これ位に面白く読んだものは近頃無かつた。

 涙香漁史が飜案した昔の探偵小説は、妙に血なまぐさく薄気味の悪いものであつた。少年時代にはよく愛読したものであつたが、就中「幽霊塔」といふのは気味が悪かつた。大時計の指盤から地下室へもぐり込んだり、壁の中から女の手が突出したりして、ゴシツク・ローマンスの古風な陰火が人を臆病にする。一体あの当時は、社会的に陰気な暗い趣味が悦ばれてゐた。たとへぱ芝居では黙阿弥の病的に薄暗い劇や、残忍非道の書生芝居や、血みどろの怪談などが流行つてゐた。明治初年のああした社会的趣味を、最もよく象徴したものは「生人形」である。生人形の見世物は、当時至る所に公開されてゐたが驚くべく陰惨で気味の悪いものであつた。私も子供の時、母につれられて一度見物したが、恐怖のあまり真青になつてふるへてしまつた。わざと薄暗くしてある小屋の中で、血みどろの人形が臨終の苦悶を訴へてゐる。あれを平然と子供に見せてゐた当時の人は、まるで教育の観念が無かつたのだ。
 涙香漁史の飜案小説が、やはりあの当時のさうした社会相を表象してゐる。あの飜案小説の気味悪さは、丁度生人形の気味悪さだ。挿絵からしてさうであり、殺人事件の木版画などはゾツとするほど薄気味悪い。

 かく当事の探偵小説は、何よりも「気味悪さ」を主題にしてゐた。故に犯罪小説とは言ひながら、探偵のことは景物であり、主眼とするのは悽惨な気分を出すことだつた。之れがいつのまにか陳腐になり、次第に中心が探偵本位に移って来た。之れが今日の所謂探偵小説で、純粋に理智的な興味で読者をひくやうにできてゐる。
 しかしこの種の文学も、今や既に行き詰つて一般から退屈されてきた。推理だけの、トリツクだけの、機智だけの、公式だけの小説は、もはやその乾燥無味に耐へなくなつた。我々は次の時代を要求してゐる、次に生れるべき新しい文学を熱望してゐる。

 「未知に対する冒険」! これが探偵小説の広義な解釈における本質である。ポオのすべての短篇小説がさうであつた。谷崎潤一郎氏の多くの作物がさうである。西洋の古いゴシツク・ローマンスがさうであり、涙香の犯罪小説や怪奇小説がそれであり、さうしてコナン・ドイルや江戸川乱歩氏の本質も此処にある。願はくはこの本質に立脚して、それから更に広く展開した「新時代の文学」を創建したい。けだし恐らくその新しき文学は、日本に於ける新浪漫派文壇──もしくは新人生派文壇──の初期を黎明するものでなければならぬ。何となれば「未知に対する冒険」の熱情は、それ自らロマンチシズムの本体となる情操だから。


 いよいよあしたは講演本番じゃというのに、こんな重篤な二日酔いでいいのじゃろうか。
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中 相作

Naka Shosaku

Author:Naka Shosaku
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